店長日記

2018/07/21 07:21

晴 脚本家橋本忍氏死去 100歳

6:30起床
73.0kg
朝:コーヒー
昼:蕎麦
夜:ミニ牛丼 厚揚げ すき焼き風

「七人の侍」脚本家・橋本忍が死去。
1918年生まれ、兵庫出身の橋本は、軍隊生活中にかかった肺結核による闘病生活の中で映画監督・脚本家の伊丹万作に師事。1950年の脚本デビュー作「羅生門」がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、同作は日本映画として初めて国際映画祭でグランプリを獲得した。以降も「生きる」「七人の侍」「生きものの記録」「蜘蛛巣城」「隠し砦の三悪人」「悪い奴ほどよく眠る」「どですかでん」といった黒澤明の監督作8本で脚本を担当した。
「張込み」「白い巨塔」「切腹」「日本のいちばん長い日」「日本沈没」「砂の器」で大ヒットを記録。その後も「八甲田山」「八つ墓村」など話題作を手がけ、多数の賞に輝いた。



7月17日、亡くなってから31年目を迎えた芸能史に名を遺す昭和の大スター・石原裕次郎さん。

日活の“ドル箱コンビ“だった石原裕次郎さんとまき子さん

31年前の昭和62年7月17日、その華々しい生涯に幕を下ろした。
7月19日に放送された「直撃!シンソウ坂上」(フジテレビ系)では、妻だからこそ語ることができる石原裕次郎さんの素顔に迫った。
結婚する時の約束に慣れるまで8年…
命日を前に、生前、裕次郎さんが過ごした邸宅を訪れたMCの坂上忍。
かつて石原プロ制作の連続ドラマにも出演するなど、彼らとの関わりは深い。
そんな坂上さんを迎えてくれたのは、裕次郎さんの妻、まき子さん。
かつて女優・北原三枝として裕次郎さんとともに日活の“ドル箱コンビ“として活躍していた。
稀代のスターである裕次郎さんのデビューは、兄である石原慎太郎さんの作品「太陽の季節」が芥川賞を受賞し、1956年に映画化された作品に裕次郎さんが端役で出演したことがきっかけ。
この出演がまき子さんとの出会いとなり、裕次郎さんの初主演映画『狂った果実』での共演を機に交際を始めた。

それから裕次郎さんが出演する映画や作品中の歌が次々と大ヒットし、日本で空前の“裕次郎ブーム“が巻き起こる。

一方、2人は結婚を視野に入れて密かに交際を継続していたが、当時の芸能界ではトップスター同士の恋愛はご法度だったため、駆け落ち同然でアメリカへ婚前旅行へ行ってしまう。

なぜ裕次郎さんは、クビを覚悟してアメリカ婚前旅行を決断したのか。
「周りのスタッフさんたちは認めてくれましたが、会社が認めなかったんです。私もその時は、会社が反対していることはいけないことというのは常識で分かっていましたから。でも、どちらを選ぶかとなったら裕次郎さんを選ぶ。会社に抵抗して実力行使です。そうしたら社長から『結婚を許す、帰ってらっしゃい』と。帰ったらまた飛行場が大騒ぎですよ」(石原まき子さん、以下同)
帰国した2人を約200名の報道陣が待ち構え、2人は謝罪会見を行った。これが日本で初めての謝罪会見だと言われている。
そして、2か月後には結婚を発表。


倒産寸前の「石原プロ」を助けたのは“新人“の渡哲也さん
“仕事に生きた“裕次郎さんは、1963年に石原プロモーションを設立し、映画製作へ乗り出す大きな決断に出る。
それから5年後の1968年に完成したのは、今も語り継がれる伝説の映画『黒部の太陽』。製作費は約4億円という大作で、観客動員数は約733万人、興行収入は約16億円と、この年の国内最大のヒットを記録。
だが、その2年後、石原プロは窮地に追い込まれてしまう。

1970年公開の映画『ある兵士の賭け』の主役にハリウッド俳優を起用し、巨額の費用を投じて製作。石原プロにとって勝負をかけたビッグプロジェクトだった。
「失敗したんです。外国の俳優さんたちを使うと日本の映画の何十倍もの製作費がかかる。裕次郎が主役ではなく、アメリカのなじみのない方だから、興行的に失敗するわけです。それで大借金。当時で言うと6億の借金」

当時、公務員の初任給が約3万円の時代…莫大な負債を背負った石原プロは、この時会社の資金もほとんど底をついていた。
そんな切迫した状況の中、ある新人俳優の意外な行動が石原プロを変えることとなった。
その人物は、のちに石原プロの2代目を継ぐ、渡哲也さん。
渡さんが日活でデビューした新人の頃、すでに大スターだった裕次郎さんが自ら立ち上がり、「頑張ってください」と握手をしてくれたという。
裕次郎さんの人柄に胸を打たれた渡さんは石原プロの経営難を知ると、当時のサラリーマンの年収4年分にあたる全財産180万円を差し出した。
「その時にはさすがに参ったって。『ありがとう、哲・気持ちだけは頂くけれども、これだけは引いてください』と戻してもらいました。そしたら間もなく、『じゃあ僕を石原プロに入れてください』と言われて、どん底の石原プロにですよ」
倒産寸前の石原プロに入社した渡さんの姿は、不安だらけだった社員たちにも勇気を与えたという。
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舌がんが発覚…病魔との闘いの始まり
そこで、この時、経営者として大きな決断に出た裕次郎さん。
当時、急速に普及してきたテレビに進出。
1972年から1987年に放送された刑事ドラマ『太陽にほえろ!』では、最高視聴率40%を記録。1979年にスタートした「西部警察」では、派手なアクションや爆破シーンが人気を呼び、大ヒットした。
“裕次郎・渡”の2枚看板が切り開いたテレビ進出の成功。倒産寸前だった石原プロは大復活を遂げた。
「もう男の友情っていうのはやはりすごいですね。『友情』という字はあの2人に当てはまるしかないと、そのくらいすごい絆ということですね」
“裕次郎・渡”の2枚看板を間近で見てきた後輩の舘ひろしさんは「時代を背負った人だったんでしょうね。裕次郎さんがいらっしゃって、渡さんがいらっしゃって。この師弟関係があって、誰もその間にはいれないような関係というか、きっと運命共同体だと思います」と語った。

良き仲間に囲まれて、会社の経営も軌道に乗り、充実した日々を過ごしていた。
しかし、1978年12月、裕次郎さん44歳の時に舌がんが発覚。
入院、手術と3カ月に及ぶ闘病生活を経て見事克服をしたが、これは病魔との闘いのほんの始まりにすぎなかった。

それから約3年後の『西部警察』の撮影中に、裕次郎さんは背中と胸の激痛を訴えて緊急入院。
心臓近くの大動脈の内側が破れて、血液があふれ出てしまい、それによって血管が破裂すれば死亡してしまう「解離性大動脈瘤」で、手術をしても成功する確率はわずか3%と言われていた。
まき子さんは入院から1日も自宅に戻ることなく裕次郎さんに寄り添い続けた。
そして、6時間にも及ぶ緊急手術を経た裕次郎さんの手術は無事成功。

退院した裕次郎さんはずっと待ち続けてくれていた社員の石原プロへ向かうと、笑顔で出迎えてくれた社員たちとの再会に初めて男の涙を見せたという。

退院から半年経つと私生活にも大きな変化が起きたという。

かなり奔放な生活を送っていた裕次郎さんだが、好きなアルコールもたばこも経ち、塩分の薄い食事を3度きっちりと食べているとテレビでは語っている。
だが、神田正輝さんは「隠れてタバコを吸ったりしているんです。『石原さん出番です』と言われたら僕によこすんです。でも、(受け取ると)火は反対じゃないですか」と明かした。
また、舘さんは「撮影に行くとまき子さんが作ったサラダが届いているんです。塩分制限があるので、石原さんが食べるんですけど、塩を使っていないのでおいしくないと。少し食べて渡さんに渡して、でもおいしくないから僕のところに来て…。心をこめて作ったサラダを私が頂きました。すみません…」と告白した。
その話を聞いたまき子さんは「全部バレバレ!そういうことは全部わかってる。それが夫婦なんです」と裕次郎さんへの愛情を感じさせた。
だが、運命はあまりに残酷だった。
2度の病を乗り越えた裕次郎さんだったが、1984年、肝細胞がんに侵されて入院。
「医師に呼ばれて宣告されるんです。石原裕次郎に知らせるかどうか、ということが当時これが延々と私の中の闘いになるわけです。私は絶対に知らせない方で、知らせる方も何人かいて。知らせた方が闘えるというんです。私は一番、裕次郎の弱さを知っていますから。弱い性格の部分を…。彼は闘えないと思ったんです」
「裕次郎さんの弱さ…」という、妻でなければ触れることができない人間・石原裕次郎の一面。
「ベッドルームでいきなり起き上がって、『治療なんかいらないんだ』と叫ぶんです。その時に私は、手を握ってさすってあげました。そういう状態でまたスーッと眠るんです。そういうことが何日も続くんです。最後まで知らせませんでした…」
これまで幾度となく病と闘い、打ち勝ってきた裕次郎さんだが、7月17日、まき子さんの「頑張るんですよ」という言葉に2回うなずいたあと亡くなった。

まき子さんだけに残した遺言

裕次郎さんは「映画を製作してほしい」という遺言を残していたが、実はまき子さんには葬儀で言えなかった別の遺言があったという。
「息が途絶える少し前に、『俺が死んだら石原プロをたためよ』と言われたんです」
裕次郎さんとの約束をこれまで守り続けたまき子さんだったが、この言葉だけは唯一守らなかったという。
「みんな必死でした。裕さんをなんとか戻そうと、病から戻そうと、その姿を見たらとても言えませんでした」
石原プロには裕次郎さんの信条を受け継いでいる人が大勢いて、それを誰よりも感じたまき子さんは、石原プロの存続を決意したという。

裕次郎さんの死から31年。

ファンのために、裕次郎さんの思い出の品々は全国を横断し、これからも夢を与え続けている。



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